私は写真を撮るのは好きですが、写真論はあまりよく把握していません。
大学で単位は撮ったものの、受験勉強のような感じで、単語や人名や年表をなんとなく知っている状態です。体の中に落ちているかといるとそうではない気がします。
どちらかと言うと、テーマを考えるために、国語や理科社会的な勉強をする方が好きです。
(ここに数学が入っておりません。。)
そんな私ですが、ほんの少しだけ写真論的考察をしたことがあります。
備忘録として、ブログに残します。
まずは大好きな写真家、土門拳さんと梅佳代さんについての考察です。
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土門拳・梅佳代 社会の変化に適応するこどもたち
■土門拳 『筑豊のこどもたち』 1960年
『筑豊のこどもたち』は、福岡県筑豊の閉山した炭鉱裾野に暮らすこどもたちの生活を撮ったもので、日本におけるリアリズム写真の代表的な写真集である。1960年に発刊となった初版は誰でも買うことが出来るようにザラ紙に印刷され(土門自ら提案)、1冊100円で発売された。デザインとレイアウトを亀倉雄策が、前書きを野間宏が担当。10万部を超えるベストセラーとなった。
1959年12月の半月間、廃屋同然の炭鉱住宅(主に炭鉱周辺に形成された、炭鉱労働者用の住宅のことである)に泊まり込み、撮り歩いた。鉱山のこどもたちの姿に焦点を当てている。
■梅佳代 『男子』2007年
梅佳代は、身近な人物たちを被写体に、日常風景を昭和のスナップ写真風に切り取った作品を発表する写真家である。『男子』は、専門学校時代に撮りためたという「お調子者」な大阪の少年たちが被写体である。
こどもは、表情やポーズなどを指示できる大人と違い、自由気ままに動く。
土門拳も梅佳代も、子供と非常に近い距離でコミュニケーションを図りながら撮影している。こどもの目線(アングル)、感情の流れに沿って撮影している。
当時土門拳が使用していたカメラは、ライカ M 3 。
ズミクロン 50mm F 2 のみで撮影している。
梅佳代の愛用カメラは銀塩フィルムカメラであるCanon EOS5。
基本的に標準レンズ、プログラムモードのみで撮影する。
2人のカメラ環境に関して共通しているのは、フィルムカメラを使用していることである。土門拳が『筑豊のこどもたち』を撮影している当時は、デジタルカメラやズームレンズのない時代である。梅佳代が写真家としている活躍している現代は、デジタルカメラが主流の世の中であるが、慣れ親しんだフィルムカメラでの撮影をメインとしている。
フィルムでの撮影は、撮り直しがきかない分、集中して撮影出来る利点がある。
連写ありきではないため、シャッターボタン押下の瞬発力を体で身に付けることが出来ると思われる。
被写体のシャッターチャンスをじっと待つというより、決定的瞬間にシャッターボタンを押すことを重視しているため、撮影者もその予測不可能な魅力的な瞬間との出会いを楽しみにしている節が感じられる。絞りやシャッター速度などの設定をしていると、瞬間との出会いを逃してしまう。
土門拳がズミクロン 50mm F2レンズのみで撮影したことと、梅佳代が基本的に標準レンズ、プログラムモードのみで撮影したことに共通するのは、カメラの設定による効果を反映させるのではなく、ベースとなるカメラ設定のもとで魚釣りのように被写体を捕まえ、像を結ばせることだと考える。
なお、2人の写真家の相違点は、土門拳の写真はモノクロ、梅佳代の写真はカラーである。
現代ではPhotoshopなどの技術普及により、モノクロ写真⇔カラー写真の変換も可能とはなったが、2つの作品においては色変換をすると味わいや損なわれてしまうように思われる。色というものは、その時代時代の空気を表すものである。
女性のメイクアップに流行があるように、街に存在する色、こどもたちが着用している衣服の色や質感は時代を如実に表す。
梅佳代の『男子』は、現代のこどもたちをやや彩度高めに撮影している。
こどもの周りに存在する色も、被写体と同じくらい重要視しているように思われる。
カラフルの中に、ポップな躍動感やキッチュさも併せ持ったところが、魅力のひとつであると思われる。
その反面、土門拳の『筑豊のこどもたち』はモノクロ写真である。
暗所での人間の眼は、色の認識の感度が落ちていくため、明暗をチャッチする視覚細胞が敏感になる。
そんな効果を土門拳が図っていたかというとそうではないと思われるが、ひたむきに生きる昔のこどもたちのモノクロ写真を前にすると、高感度・強感受性をもって視ることができる。
『筑豊のこどもたち』の時代は、電力エネルギーが火力にスイッチし始めた頃である。
高コスト、流体エネルギーへの転換、輸入炭の増大などから炭鉱の閉山が相次ぐことになった。また、事故も完全になくなったわけではなく、そのため事故に対する労働者や遺族への補償も経営者の大きな痛手となり、日本の炭鉱衰退に拍車を掛けた。
筑豊の炭鉱は、戦時中航空機用鋼増産や翌年の重要事業所認定など日本鉄鋼業界の中心的存在の八幡製鐵所を背景に抱えていたため、戦前日本では最大規模の炭田であったが、炭鉱の閉山後は自治体の財政基盤が失われるとともに、多数の失業者が発生し、人口の流出が急激に進んだ。また、筑豊の炭鉱エリアは一帯の土壌が石炭採掘、加工などによって汚染され、農業にも適さなくなっているため、一層産業の転換を困難にさせている。
そんな切迫した状況においても、筑豊のこどもたちは、環境要因を理解したうえでの柔軟な生活力を持ちながら、子供なりに生きていこうとしていた。
置かれた場所で生きなさいと言うには過酷すぎる環境にも関わらず、自分の住む世界で自分がなすべきことを自力で行っていた。
こどもたちに向ける土門拳の視線はとてもあたたかい。
未来を生き抜く背中を押したい気持ちに溢れている。炭鉱の困窮を招いた国や企業への告発という目的はそもそもの撮影のきっかけであったはずだが、実際に筑豊のこどもたちのコミュニティに入ってみて、内なる意思への問いかけを行うことに執心していたことが感じられる。
一方、梅佳代の『男子』の対象である現代だが、不自由なく、豊かな社会である。
あるもので生きるというより、欲しいものが何かを明確にして大人に求めることができる裕福な状況である。
土門拳の『筑豊のこどもたち』のこどもたちのように、大人の機動力を求められることはほとんどない。
一昔前までは、こどもたち自身のコミュニティが街角には存在していた。
大人の目の届かないところで、物に対する是非の判断の体得や、五感を使った遊びをしていた。だが今の時代は、こども人口の減少や、塾や習い事を強いられるこどもの増加が、身近な環境の中で一緒に遊べる友人作りがしづらい状況を呼び、ひとりで遊ぶことができるコンピューターゲームが浸透した。
だからといって、こどもがこどもらしくなくなったというわけではないであろう。
梅佳代の写真には、こどもにとって恒久的な「好奇心」や「いたずら心」が詰まっている。
昔と現代のこども比較は、ともすれば現代のこども批判につながりがちだが、社会に求められているものや在り方に、自分なりに適応しようとしていると捉えるべきではないだろうか。流行やインターネット環境などの新しいことに対する感度が高く、直観的に吸収し活用できる。
また、昔のこどもたちに比べ、現代のこどもたちは貪欲に直観的動作や作業を行い、積み重ねている。時代が求めているこどもの在り方が、時の流れとともに変動しているということを大人が理解しなければ、少子化社会に風穴を開けることはできないであろう。
梅佳代の写真は、そんな社会提示を行うことが目的ではないであろう。
ほんの一時の子供時代の輝きをキャッチし、直観的にシャッターを押して像を結んでいると思われる。
話がやや横道に逸れたが、土門拳・梅佳代は、全く違う時代に生きる写真家であるが、高いコミュニケーション能力と程よい距離感をもってこどもたちを撮影していたことには間違いないであろう。
壁をつくらず、自然な表情で写ったこどもたちは皆、未来への眼差しに満ちた、前を進む魅力的な存在だ。
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<参考文献・参考URL>
●土門拳 『別冊太陽 鬼が撮った日本』 平凡社 2009年
●梅佳代 『男子』 リトルモア 2007年
●東京都写真美術館編 『昭和の風景』 新潮社 2007年
●『日本写真史概説』 岩波書店 1999年
●『大切なひとをキレイに写す本』 学研パブリッシング 2014年
●『筑豊のこどもたち』土門拳 | 現代美術用語辞典ver.2.0
●炭鉱 - Wikipedia
●筑豊炭田 - Wikipedia